会報『ひかり通信』の最新号より一部を掲載します。
ふたつの教育
連れ合いに占領されていたので外で使えなかったモバイルパソコンが、最近やっと戻ってきたので、喫茶店で使っています。
それはさておき、あいかわらず世間は不可解な事件が多発していますが、言い出せばきりがないので取り上げません。考える材料にはなりますが、現象に翻弄されるだけで、気をつけないと他者批判の権化と化してしまうからです。
「日本人」が世代を下るごとに劣化しているのは明らかです。誰かがくいとめなければなりません。誰が?
それもさておき、ふたつの教育についてです。
ふたつ? 教育はひとつじゃないの? という方は甘い、甘い。
古代ギリシャの哲学の雄、アリストテレスは『政治学』の中でふたつの教育について書いています。教育には奴隷の教育とエトスの教育があるというのです。エトスとは徳性という意味です。
奴隷の教育とは、「人々を喜ばせるために、楽器演奏や踊りを専門的に身につけたり、または技術を専門的に身につけたり、学問を専門的に身につけたりして、そういう何か人々の生活に役立つための学習をする※」ことをいいます。
一方、エトスの教育というのは、「生活にとって役に立つ教育ではなく、それを学ぶことがその人の人格を豊かにする教育なのです※」。
少し考えればわかることですが、現代の公教育は奴隷の教育です。カルチャーセンターその他で無目的で自分のためにしている教育がエトスの教育といえるかもしれません。
もちろん、両者は重なっていることもあります。しかし、一般に学ぶことが何か効率のよいものに結びつけられるかどうかを問題にするとき、それは間違いなく奴隷の教育なのです。人間の内面の形成には関係なく行われるのです。
アリストテレスはまた、奴隷の教育を不自由人の教育、エトスの教育を自由人の教育とも呼んでいました。
シュタイナーが提唱した教育はエトスの教育です。受験勉強とはまったくちがいます。現代がシュタイナー教育を理解しがたいのはそういう点です。
ですから、シュタイナー学校やひかりシュタイナークラスで行っている、オイリュトミーやフォルメンはすべて調和的リズムを培うものなのです。その他どんな科目も、たとえば算数も「調和した秩序や関係を学ぶ※」ことなのです。それを教える側が意識しているかどうかで、奴隷の教育かエトスの教育に分かれるのです。
奴隷の教育の行く着く先はこころと精神の荒廃かもしれませんが、エトスの教育は自分を知ることにつながり、本来の自己教育を大人になって行えるようになるはずです。
自分はどのような教育を受けてきたかを一度考えてみてください。そうして、子どもたちがどのような教育が相応しいかを考えてみてください。
(松川信康)
2015.3.1 寄稿
自分の頭で考える
現代の特徴のひとつは、自分の頭で考えることができなくなっていることではないでしょうか?
社会に現れてくる複雑怪奇な出来事に目を奪われて、自己を内省することをだれもが忘れがちになっています。他者批判は早くから長けるようになっても、自分をふりかえって考えることはあまりしないのが当たり前となっているようです。
これははっきりした理由(原因)があります。今まで繰り返し述べてきたことですが、「人を成熟に、あるいは最終的には老いや死へと段階的に導く社会制度であるイニシエーション、通過儀礼」が成り立たない社会に生きていることの認識を誰も持とうとしていないことが、自分で考えられないこと、あるいは他者批判を行うことの大きな原因となっていることに間違いありません。
はっきりと輪郭がある生活空間であったムラ社会では、「人生観」がはっきりしていました。そういう場で行われた通過儀礼によって、子どもは段階的に大人への自覚を促されたのです。
近代以降はムラ社会は消滅していったので、通過儀礼は成り立たないのです。今あるものは形骸化されているのです。(毎年、市町村がとり行う「成人式」を考えてみれば明らかでしょう。)
でも地域社会では少しは残っているケースもありますが、やはりはっきりとした熟成への自覚を全体的に促すものではありません。
これも繰り返し述べてきましたが、ムラ社会でイニシエーションとして行われてきた通過儀礼は、いったんは国家が「教育制度」という形で担おうとしてきましたが、(現状は破たんしています。)一人ひとりの個人が「自己教育」として行っていくしかないのです。
このことが、現状の認識として理解できてはじめて、自分の頭で考えること、つまり、「成熟」への可能性が生まれてくるのです。
(松川信康)
2014.6.15寄稿
三つの提言―シュタイナー教育の観点から―
昨今のニュースの共通点は、「人間の認識が欠けている」ことです。このことは議論のテーマになったことはありません。しかし、百年以上前(1906年)にもうすでにシュタイナーは教育論の中で語っていたことです。
「人間の本質」がわからないまま、私たちは生き続けているのです。いろんな問題が社会に現れているのは、その結果だといえます。当然、教育問題もそのひとつです。というより中心の問題だとシュタイナーは語っていました。社会問題の中心は教育の問題であり、そのまた中心は教員の養成の問題だとズバリ言い当てていました。
彼が言う「教員とは学校の先生だけではなく、親も含めています。さらに言えば、子どもより上の世代と考えていました。
さてそこで、今月はまとめてとして提言をしたいと思います。
ひとつは「からだ」についてです。
ここ百年間で日本人の体力はすこぶる低下しました。だれも一日百キロ歩きませんし、六十キロものを背負うことはしません。夜目がきかなくなっていますし、嗅う力もおとろえています。
原因ははっきりいています。自らの感覚と手足を使わなくなったからです。パソコンやスマホはむしろ一部しか使わないようです。
ですから、じかの感覚と手足を使うことです。これがひとつ目です。
ふたつ目は「こころ」の問題です。
心を育てるには「芸術」が必要です。特別なことではありません。「美しさ」を体験するとこころは育つのです。つまり、美しさとは何かを常に大人が考えて実行することです。たとえば、美しいコトバトは何か、美しい人間関係とは何かを考えて、できるだけ行おうとすることです。
三つ目は「あたま」に関してです。
子どもは手足を使うことで頭が発達しますが、より深くあたまが働くようになるのは模倣を通してです。子どもは周りの大人を見ながら、しぐさやコトバを身につけていくだけではなく、大人の内側の「考え」つまり精神の在り方さえもまねしてしまうのです。「まなぶ」のもとは「まねぶ」ですから、日本語はそのことをちゃんと表現しています。しかし現代はこれが一番むずかしいのです。子どもにまねをされてもいい考えとはいったいどんな考え方なのかが、まったくといっていいほどわからなくなっているからです。
わたしたちは、それを自ら学ばねばなりません。そうしなければ、現代の教育、社会の問題に巻き込まれて、自分を見失ってしまうからです。
「迷子の大人」にならないために、私たちは何をすればいいのか考えていくことが今問われているのです。
(松川信康)
2014.5.18寄稿
「大人のいない国」とはどういう国か?
皆さま、御無沙汰しています。
暑さが和らいだと思ったら、またぶり返して蒸し暑くなりましたね。夏の疲れが徐々に出てくる時節ですのでご自愛ください。
さて、上記の「大人のいない国」とは本のタイトルです。先月文春文庫で出た本です。単行本も読みましたが、いつものことで、気に入っている本は文庫でも買うのです。
それはともかく、著者は日本の有数の論客の二人、内田樹さんと鷲田清一さんです。簡単にご紹介します。
「日本」という国は明治以降、先人たちの努力で国のシステムが成熟していて、「国民」が未熟であってもやっていける、という論旨です。まあ早い話が、「日本」は「大人」にならなくてもやっていける国だというのです。
二人はこのことを多角的な観点から説明しようとしています。そして、最後は二人の得意な「身体論」を展開しています。
おそらく、この二人の観点が今の「日本」の現状を言い当てていると思います。
私たちは「成熟」を忘れているのです。いや、わからなくなっているのです。思い描くことすらできないのではないでしょうか。
成熟を妨げているものはいくつか考えられます。
人を段階的に成熟に導く装置としての「通過儀礼」(七五三や成人式など)が実質的に力を持たなくなっていること、それに代わる「教育」が国の管理下に置かれ、子どもを競争原理の価値観で歪めてしまっていること、そしてなにより「通過儀礼」に代わる現代のイニシエーションとしての「自己教育」が行われていなことなどが挙げられます。
名ばかりの大人たちは、子どもにどう対し成熟にいたらしめるかがわからなくなっているのが現状です。
先ずは「現状の認識」からスタートしなければなりません。
現状が理解できなければ、次の「原因の解明」に至らないからです。
自己教育は「治療の方法」です。御釈迦さんは「四諦」と名付けた四つの真理のことです。
①「現状の認識」→②「原因の解明」→③「健康の理想」→④「治療の方法」
の順で人間を取り巻く問題は健全になっていくのです。これは普遍の真理です。
一つひとつは大きなテーマですが、先に述べたように、最初の「現状の認識」があやうくなっているので、ものごとは混乱の内にとどまっています。
シュタイナーを学んでいる私たちに課せられているのは、「世間の眼(まなこ)」になることだと僕は考えていますが、一歩でも先に進めることはできるのでしょうか。
(松川信康)
2013.9.12寄稿
「父」なき時代を生きる
皆さま、アドベントの時期で、クリスマスが近づいてきました。
さて現代の論客のひとり内田樹氏が、村上春樹の小説を、「父の不在の時代」にいかに自分を保って生きるかを描いている、と評していたのを読んだことがありました。それ以来、「父」の不在というテーマが僕のなかにあります。
内田氏が言う「父」とは、社会学では「聖なる天蓋」といって、人の生き方を規定するところの寄って立つ価値観のことです。そういう意味でたしかに現代は「父」がいないのです。皆さまはお気づきでしょうか。たしかに肉親としての父は存在しますが、その父親の考えが基盤になる価値観をかたちづくってはいません。
『モモ』を書いたミヒャエル・エンデはシュタイナーを「精神の父」だと言っていましたが、ここで言っている「父」はそういう意味に近いかもしれませんが、エンデもシュタイナーを絶対視してはいませんでした。(その証拠に、シュタイナーの芸術論を受け入れてはいません。)
通過儀礼が成り立たない近代以降は自己教育しかない、ということは今までくり返し書いてきました。シュタイナーは20世紀初頭に人類の課題が「道徳の発展」だと言っていましたが、現代はモラルが恐ろしいまでに低下しています。どういう行いが「善」でどういう行いが「悪」かが誰にもはっきりしていないのです。一人ひとりが自分勝手に、これが善だこれが悪だと思い込んでいるだけです。これも「父」なき時代の特徴です。
シュタイナーは『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の中で、基本行とともに仏陀の八正道と同じ内容の行を取り上げています。他の本の中では八正道を曜日に対応させています。以下に簡単にご紹介しておきます。
「八正道」
①正見(土曜日)意義のある考えのみを思考する。
②正思(日曜日)根拠のある十分な熟考の後に決断する。
③正語(月曜日)意義と意味のあることばだけを発する。
④正業(火曜日)自分の行為の影響を前もって考慮する。
⑤正命(水曜日)物事を丁寧に行い、外的な瑣事に関わらない。
⑥正精進(木曜日)常に努力し、人を救済できるようにする。
⑦正念(金曜日)できるだけ多くのことを人生から学ぶ。
⑧正定(毎日)毎日同じ時間に自分の内面を見渡す(瞑想する)。
8番目の「正定」は毎日行うものです。一つひとつを毎日の心がけとして取り上げるべきだとしています。この行いによって、「道徳の発展」が可能になり自ら善悪を見出すことができるようになる、とシュタイナーは述べたのです。
(松川信康)
「意識魂」という時代
2013年も1ヶ月が過ぎました。2月は節分、立春ですね。本当の年の区切りです。様々な思いを持って今年も進んでいくことでしょう。
さて、今月は「意識魂」を考えてみます。
シュタイナーによれば、人間の構成体は、4つ、7つ、あるいは9つに分かれるということですが、「意識魂」は7つに分けたときと、9つに分けたときに使われていることばです。
歴史的に考えれば、「意識魂」の時代は1413年から2160年間、つまり3573年までいうのですが、これは人間の魂の進化のひとつの段階であるといえるのです。
「意識魂」をとらえようとするとき、ひとつ前の「悟性魂」と対比させて考えるとはっきりします。簡潔に言いますと、「悟性魂」は外側の価値観にそって生きようとする魂であり、「意識魂」は内側の価値観にそって生きようとする魂といえるでしょう。
たとえば、肩書きを重んじるのは「悟性魂」的であり、要らないのが「意識魂」です。何かものを考えるときに、これまでの考えを基盤にするのが前者で、今までだれも考えたことがないことを自ら考えていこうとするのが後者です。
ぼくは「意識魂」が善で「悟性魂」が悪だと言っているわけではありません。ただシュタイナーは「悪とは時代にそぐわないもの」だと特徴づけている限りにおいては、現代にふさわしくないものは悪だといえるでしょう。
国家やシステムはある意味「悟性魂」的です。ともすれば個人の「意識魂」を抑圧することがあります。現代の子どもたちは「意識魂」を発揮して生きようとしています。しかし、学校のシステムの考え方がそれにふさわしいようにつくられてはいません。少しずつ「意識魂」の子どもたちを生かそうとする大人側の意識はみられますが、まだまだ本当に子どもの内側を育てるシステムには至っていないのが現状です。
ですから、学校でではなく、家庭で親たちが子どもたちの魂にふさわしい対し方を学んでいかなければなりません。
『無量義経』というお経のなかに「殺戮(せつりく)を好む者には大悲(だいひ)の心を起こさしめ」とあります。今日教育の現場において、子どもたちの魂の殺戮がまさになされているのです。「大悲の心」とは相手を理解する心です。外側の価値観や道徳だけで対するのではなく、相手を生かしめる心のことです。
さて、こういうふうに考えると、現代を生きる私たちに突きつけられている大きな問題が何かはっきりしてくるのではないでしょうか。
(松川信康)
現代の「思考」とはどのようなものなのか
私たちはいったいどこへ行こうとしているのでしょうか。
資本主義の消費社会の中に巻き込まれて、自分自身で本当に考える力がつかない名ばかりの教育を受け、心がいつも落ち着かず、やるべきことをせずに、やらなくてもいいことにかまけているのが、たいていの現代の人たちです。もちろん僕も例外ではありません。
人はだれも「良いことをしよう」と思って日常を生きていますが、自分がしていることが本当に「良いこと」かどうかは分からないのです。ただ自分が「教え込まれて習性となった判断、思考習慣を相変わらず続けているだけ(※)」なのです。そしてさらにやっかいなことに、自分は「間違ったことはしていない、正しいことをしている」と思いたいのです。
ひとつの例を取り上げます。
先日ある場所で、幼児の母親のための集まりで話しているときに気づいたことがありました。母親たちは全員自分の頭で考えていないことが分かったのです。自分がやっていることはあの本に書いてあったとか、あの人がいいと言っていたとかと誰もがこぞって(注:ある集団を構成する者全員が同じ言動をするさまで)言うのです。たいてい「子どもには早いうちから判断力を身につけさせましょう」という間違った「呪文」を信じて、3歳までの幼児たちに「何をしたいの? 何が食べたいの? 何がほしいの? どうだった?」を日常生活でふつうに連発しているようなのです。子どもがどれだけ負担になるか分からずに。(本当に判断させるのは、思考が発達する14歳以降です。)
もちろん僕は批判をする気はありません。現状を述べたいだけです。いかに現代の人たちが自分の頭で考えられなくなっているかということを言いたいだけです。
ゲーテは言っていました。「人はあまりにもつまらぬものを読み過ぎているよ」。そして「時間を浪費するだけで、なにも得るところがない。(注:むしろ害になる)そもそも人は、いつも驚嘆するものだけを読むべきだ」。そして驚嘆すべき具体的に読むべきものとは「古典だ」というのです。
「生まれが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変の価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ」(ちなみに僕はプラトンをいつも読んでいます。最近出たものでは『メノン』(光文社古典新訳文庫)がお薦めです。)もちろんシュタイナーの『自由の哲学』はもっとも現代人に必要な本のひとつだと思います。
先月も書いたと思いますが、「今日公認されている科学に内在する弱くて投げやりな、麻痺状態になった思想に巻き込まれず、(注:残念ながら、ほんとんどの人たちは巻き込まれています。)精神科学の与える、よりエネルギッシュで、より迫力のある思想を身につけることが、大きな助けになってくれるはずです。※」とシュタイナーは叫んでいました。
ですから先ず、皆さんはつまらない本は捨てましょう。(だれかにあげるのも害になります。)自分の頭で考えるということがどういうことかを考えていきましょう。それが自己認識につながり、本当の自己教育になっていくのですから。
僕は子どもたちだれもが、自己教育できる人になることを願っています。
現代の「教育」のあり方
「現代人の中には、心に傷を受けた人が多く見られる。その人たちは、どう生きてよいかわからず、社会もまた、その人たちをどう扱ってよいかわからずにいる。普通考えるよりもはるかに多くの人が、このような生き方をしている。それはなぜだろうか。それは教育者が、子どもたちのもっとも基本的な成長の法則を顧慮していないからである。」
今まで何回も取り上げた『社会の未来』からの引用です。これを読んで皆さんはどういうふうに感じられるでしょうか。そうだ、たしかに自分の周りには変な人が多いと思われるでしょうか。あるいは、学校関係の先生や父兄も変な人が多いと思われるでしょうか。
これは大人側の認識のあり方を言っているのです。しかも、一人ひとりの自覚を促そうとしているように僕には思われます。
現代人の特徴のひとつは「他者批判」です。先ず眼に映るのは他人のあり方です。そして対象となる人たちがいかにまともでないかを陰で言い合うのです。これが一般のあり方でしょう。こういう行いは自分に対しても良くないことをしていることになります。
現代人はだれもが「心に傷を受けた人」なのです。なんらかの「発達障害」を抱えて生きているのだと思います。もしそうでなければ、「他者批判」をすることでいかに自分自身を貶めているかに気づくはずです。
そして「子どもたちのもっとも基本的な成長の法則を顧慮していない」教育者とは、自分のことであると分かってくるでしょう。
先ずは「他者批判」をしている自分に気づいていきましょう。そして、その視点を自分自身に向けていきましょう。自分がいかに「できそこない」の人間であるかが自覚できれば、シュタイナーがいう「悪しき人」の意味が見えてきます。
「今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。(中略)自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。」
「すぐ眼の前の現実に眼を向けることが、霊学(精神科学)の衝動を伴った内なる魂の訓練になるべきなのです。私は何度でも繰り返して、皆さんにこの内なる魂の実習をすすめたいと思います。」
大人の「内なる魂の実習」が緊急の課題であることを、私たち一人ひとりが真剣に受けとめるときがきているのです。
小学生クラスのカリキュラムについて
シュタイナー教育の土台は3つあります。
①精神科学、つまりアントロポゾフィー(人智学)の認識。
②芸術の認識と体現。
③教育学、つまり教育の方法の創意工夫。
これがシュタイナーの示唆した教育の「三位一体」です。そして、この3つは教師の目標として掲げられるべきものです。
それからまた、シュタイナーは言っていました。
〈教師・教育者の本質的な課題は、畏敬の念をもって個体の前に立つことです。個体が自らの発展法則に従う可能性を提供することです。そして、物質・身体のなか、身体・心魂のなか、物質的身体とエーテル体のなかにある、進歩の妨げとなるものを取り去って、個体を自由に発展させるのです。〉
この言葉は多くのことを示唆しています。そして、次のように続けています。
〈授業全体を彫塑的・芸術的、音楽的・芸術的に形成すると、律動系(注:呼吸と心拍のリズムをもたらす身体の機能)は心魂によって活発にされます。そのような授業だと、生徒がほとんど疲労しないのに気づきます。〉
これらの言葉をいつも心に留めながら授業をすすめています。以下は学年ごとの授業内容です。授業全体は上記の言葉を参考にして、子どもの「からだ」と「こころ」と「あたま」に芸術的に働きかけることを心がけています。
【1、2年生】
先ずお手玉をします。(ときにはお手玉を使ったゲームもしています。)「手は足とともに、脳よりすぐれた認識器官(シュタイナー)」ですから、手足を十分に使えるようにするためです。それは将来様々な物事を理解し判断できることを願って行っています。
次にリコーダーです。(ときには歌も歌います。)この時期の子どもは「まだ本質的に『5度の気分』のなかに生きている」ので、ラを中心とした簡単な音を吹いています。(もちろん音符は教えません。)リコーダーを吹くことで呼吸・循環器系の発達を促します。音を出す喜びを願っています。
簡単な詩を読んだ後、フォルメンに取りくみます。だいたい左右・上下の対称形を十分に練習します。線描を描くことで文字のかたちを理解しやすくなります。今は一筆書きにも取りくんでいます。
【3、4年生】
お手玉から始めます。上記のように手足を十分に使えるようにするためです。9歳くらいになると手もしっかりしてくるので、少し複雑なこともしています。たとえば、片手で2つを扱うことなど。
そしてリコーダーです。もちろんリズムよく吹くことを練習し、ハーモニー(和音)に取りくみます。「ハーモニーを理解しはじめるのは9歳・10歳になってからだ(シュタイナー)」からです。
フォルメンは左右・上下対称形のいろんなフォルムに取りくみます。徐々に複雑なものが描けるので、注意力も促すように取りくんでいます。このクラスも一筆書きを少しずつしています。今後は学年にあった詩も暗唱していきたいと思っています。
【5、6年生】
同じようにお手玉から始めます。このクラスでは3つのお手玉に取りくんでいます。
リコーダーはリズム・ハーモニーに加えてオクターブの練習にも取りくみ始めます。「12歳ごろが、オクターブの理解に向かうのに適した年齢(シュタイナー)」だからです。あとは輪唱も行います。
フォルメンはより複雑なものに取りくんでいきます。そして簡単な立体図形の見取り図も描いています。(今後はプラトン立体の見取り図に取りくむ予定です。)
だいたいのところを書きましたが、上記以外のことも行うときがあります。いつもカリキュラム通りではなく、クラスによってその都度新しいことに取りくむこともしています。
教育は科学ではなく芸術であることと、子どもたちがもっともよく自己教育できるようにするためにどうすればいいかを常に考えながらクラスを行なっています。
(松川信康)
子どもは家庭の摸像である
〈子どもは、家庭および周囲の性格と状況すべての摸像である。生まれてから7歳までの子どもは、一個の感覚器官である。周囲で語られたこと、おこなわれたこと、考えられたことのすべてを、子どもは非常な感受能力をもって受け取る。そこに、今日の科学がわずかしか考慮しない人間の成長の秘密が隠されている。子どもの周囲で表明される心的な状態が、子どもの体質になる。教師は、小学校に入学した子どもの目の輝きのなかに、その子どもが周囲から愛情に満ちた扱われ方をしたか、怒りの爆発の下で愛されずに扱われたかを見る。両親や兄姉がおこない、語り、考えたことが、子どもの身体の性質のなかに生きている。子どもの呼吸や血液循環や神経組織の働きの過程のなかに、この心的なものの表明が観察される。両親が、しばしば子どもに怒りをぶつけるような状態もありうる。そのような子どもの場合、そのような扱いによって内的な本質と結びついたものが、消化や筋肉の動きに現われ、また理解能力の優劣として現われる。/生徒は、家庭の様子を表わしている。健康、気質、理解能力、道徳的素質のなかで、子どもは家庭の様子を表現している。〉(『ヴァルドルフ学校におけるルドルフ・シュタイナー』より引用)
いろいろと考えさせられることが書いてあると思います。第一7年期の子どもは何より「一個の感覚器官」であり、すべて周りで起こることを判断することなく受け取るのです。ですからシュタイナーはその時期の子どもの特質を「模倣する存在」であるとはっきり打ち出したのです。これは真摯に受けとらねばなりません。上記の発言を敷衍していえば、「子どもが幼いとき吸収した感覚印象が、将来子どもが大人になったとき、抵抗力のある、健康な身体に恵まれるか、あるいは慢性病を持つような、病気がちな体質になるかにまで影響をおよぼす」といえるのです。
こういう観点から考えると、大人が子どもの傍らでどのように振る舞えばいいかみえてきます。もちろん完全な人間はどこにいませんから、自ら心がけるのです。自分はいかに不完全な存在かを自覚し、自分の日常の振る舞い(意志)はどうか、自分の他者に向けての言葉がけや思い(感情)はどうか、自分の判断(思考)は偏っていないかを、一日の終わりに振り返ってみるのです。これは5分くらいでいいのです。暗い反省ではなく、前向きな改善です。(そして、決して自分だけが「正しい」と思わないことです。それと他者を責めないことです。)
これを毎日続けていけば、今までとはちがう落ち着いた雰囲気が身に備わってくるはずです。それが日々を共に生きる子どもにいい影響を及ぼすことは間違いありません。
(松川信康)
「思考」のあり方について
先日ある年配の女性と話していて気づいたことがありました。
その方はとても一所懸命にいろんなこと学んでいます。実際にある専門学校の講師もされていました。たしかに、長年いろんなことを学んで知識の蓄積があるので、ぼくの言葉に対してすぐにコメントを用意することができますが、いちばん肝心なことに気づいていないと感じました。自分がいったいどういう「思考」をしているかに気づかずに話し続けているのです。
これは彼女に限ったことではありません。たいていの人と話していると、自分の「思考」のあり方を意識していないのがわかります。これはいったいどうしたことでしょうか。なぜ人は自分の「思考」がどんなあり方をしているのか意識できないのでしょうか。
もちろん「教育者が、子どものもっとも基本的な成長の法則を顧慮していないから」なのですが、むしろ現代の教育を受けることで逆に「思考のカプセル」に閉じこもってしまうのです。
ではシュタイナーは「思考」につてどのように捉えていたのでしょうか。それをご紹介します。
『神智学の門前にて』の「12章 修行」からです。
古今東西の修行は3つのパターンに集約できる。その区別は導師との関係性で区別する。ひとつはヨーガなどの東洋の修行法である。修行者は地上に生きている導師(グル)に絶対帰依する。(注:悪い例がオーム真理教)これはインド人に適している。
二つ目はキリスト教的修行。東洋の導師のかわりに、偉大なグル、イエス・キリストを置くのである。しかし、地上の導師を通してキリストに導かれなければならないので、導師への依存はある。
そして三つ目は薔薇十字の修行だ。これは「むしろ科学の基盤の上に立ち、科学のために信仰に疑いを持っている」現代人にふさわしい。この修行法では、「修行者は導師からもっとも独立している」。導師はたんに助言者の位置にとどまっている。導師は「修行者がなにを内的におこなうべきかについて教示を与える」ことと同時に、「確かな思考の発展」を促す。「はっきりとした思考の発展なしには、霊(精神)的な修行を行うことはできない」からである。そして、「薔薇十字の修行では、物質界で思考をとくに修練する」のだ。
ところで、人間は「物質界」だけではなく、「心魂界」と「精神界」の3つの世界の住人であるとシュタイナーは語っていましたが、これら3つの世界すべてに通用するのは「論理的な思考」であることも語っていました。
たいていの現代人は高次の世界にも通用する「論理的な思考」を身につけていません。そういう「論理的な思考」は「人智学(アントロポゾフィー)の真理の学習あるいは思考の行をとおして形成される」というのです。そして「知性をもっと修練しようと思うなら、『自由の哲学』や『真理と学問』のような本を研究することである」とも言っていました。
これは現代における緊急の課題であることは間違いないでしょう。
(松川信康)
シュタイナーの提言
〈現代人の中には、心に傷を受けた人が多く見られます。その人たちは、どう生きていいかわからず、社会もまた、その人たちをどう扱っていいかわからずにいます。ふつう考えるよりもはるかに多くの人が、このような生き方をしています。それはなぜでしょうか。それは教育者が、子どもたちのもっとも基本的な成長の法則を顧慮していないからです。〉
100年近く前のシュタイナーの著書『社会の未来』での発言です。この言葉を敷衍して考えれば、現代のほとんどの大人が「心に傷を受けた人」、いや誰もがそういう状態であるといえます。現代の教育観は理想からかなり遠い所にあると思われるからです。ぼくは悲観ばかりしているわけではありません。事実をまず知ることが大事だと考えるのです。
以前に「治療のプロセス」に書いたことがありました。これはお釈迦さんの根本の教えの「四諦」に基づいたものです。人が病気から健康に至るプロセスです。
①苦諦(迷いのすがた)…「現状の認識」、②集諦(苦の原因)…「原因の解明」、③滅諦(悟りのすがた)…「健康の理想」、そして④道諦(悟りへの方法)…「治療の方法」の4つの真理です。
これをさらに次のように考えることもできます。
②の「原因の解明」(原因)がもとで、①「現状の認識」(結果)に至るということです。
ある本の中ではこれは凡夫の「現実態」としてあります。やはり現状を認識するには、出来事に巻き込まれるのではなく、すべての現象の裏にある本質を探っていくことです。これはとても難しいでしょう。なぜならわれわれは誰もが不十分な教育しか受けておらず、本質を掴むための考える力を育ててはいないからです。
そして④の「治療の方法」(原因)がわかったうえで、③「健康の理想」(結果)に至るのです。これは同じ本の中で聖者の「理想態」として描かれてあります。
現代は本当に誰もが「心に傷を受け」ています。その状態では物事に翻弄されるばかりでしょう。ある意味で「幻想」に耽っており、「睡眠状態」に陥っているのです。
〈自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人よりも自分の方が清らかであると考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人々を深く捉えている睡眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。それには、今日公認されている科学に内在する弱くて投げやりな、麻痺状態になった思想に巻き込まれず、霊学(精神科学)の与える、よりエネルギッシュで、より迫力のある思想を身につけることが、大きな助けになってくれるはずです。〉
今の自分の考えがいかに弱々しいかに気づいていくためには、地道にアントロポゾフィー(人智学)を学んでいくしかありません。これは大人として、未来を生きる子どもにできる一番の道だと思うのです。
( 松川信康)
自己リストラのすすめ
あけましておめでとうございます。
なにかと話題にされてきた2012年が始まりました。(マヤ暦が取りあげられたり、映画まで作られましたね。)どんな年になるかは誰にもわかりませんが、誰にもわかっていることがあります。混乱しているのはいつも人の内側であるということです。つまり、今を生きる人たちの考える力がとても弱っているということです。これは誰もがわかっているはずです。いや待てよ。これをわかるにも考える力が要りますから、誰もがわかっているとは言えないかもしれませんね。皆さんはどうでしょうか。
そもそも自分の基本の三つの力である、考える力と感じる力、そして行動する力を日常生活の中で意識することはあまりないのではないでしょうか。とくに自分がどんな考えをもって判断し、行動しているかを客観的に、あるいは冷静に観ている人はまれでしょう。しかしある意味で、人生を豊かに生きるということは、豊かな考えを持っているということではないでしょうか。誰もが豊かな生き方を望みながら、たいていは豊かな考えを身に備えることができないでいるのです。これはいったいどういうことでしょうか。
一昨年に百歳で亡くなられた臨済宗の高僧である松原泰道師のことばをご紹介します。
〈人生の折り返し地点は創造のポイントであり、また自分の人生の再構築のチャンスです。いや自分一人でなく、家庭・家族ぐるみの家計の再構築を考える必要に迫られているのです。
バブル景気が無残にも消えた今、一般に“お大師さん”で知られる真言宗の開祖、弘法大師空海(774生~835没)が遺した、
物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道に在り。(『続性霊集巻十』)
(すべて事業が栄えるのも衰えるのも、みな人のはたらき機能の結果である。人の浮き沈みもまた、その人が教えの道を学んだか否かで決まる。)
という言葉が思い出されます。中年からほかの職業に転進したり、新事業に携わるに当たり、自己再構築の根本に空海のこの至言を胸に刻みこみましょう。〉
もちろんこれはサラリーマンの方々にむけたことばですが、一般にも通じるでしょう。再構築の英語はrestructure(リストラクチャー)で、世に言うリストラは(リストラクチュアリング)の略語です。まあ再構築、再び組み立てて築いていくことの方がわかりやすいでしょう。とうより新しく築いていくことを目指すべきかもしれません。
ということで、上記の見出しを「自己新構築のすすめ」に改めたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
(松川信康)